2020/10/18

ホンモノの気持ち

 


Zoe, 2018, 米)


Netflix にて鑑賞。


人間そっくりなアンドロイド「シンセ」が普及した近未来。

人間関係の改善に取り組む研究所で働く女性ゾーイは、

新たなシンセ・アッシュの製作の責任者を務める同僚のコールに

恋心を抱いていた。

ある日、自分の思いをコールに伝えたゾーイは、

彼から衝撃的な事実を聞かされる。

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どこか輪郭がぼんやりして、夢のようにゆったりとした映像。

サントラもドリームポップが多い。

映像にかかわった経験はまったくないものの

作品の撮り方が自分にはわりと大切だと感じている。

撮り方が「好きだな」と思った作品をずっと観てしまう。


作品の景観は、近未来が舞台のはずだけれども現代とそれほど変わらない。

ゾーイたちが働く研究所も、とてもアンドロイドを作っているような

たいそうなものには見えない(むしろインテリアショップのような普通の建物)。

現代との違いは「シンセ」がいるかどうか。

このような素朴なSFの描き方がとても好みで、あらすじよりも印象に残った。

AI開発がすすむ現代と、すでに地続きになっている問題なのだ、

という製作側のメッセージなのかもしれない。


唯一引っかかったのがこの邦題だけれども、鑑賞後はそれほど気にならず。

一貫したテーマは「"本物"なのかどうか」

研究所では、瞬時に人と恋に落ちる薬の開発もすすめられ、

そうやってつながったところで、人間どうしの気持ちさえ「本物なの?」

と疑問がうまれる。

冒頭では、恋人どうしの関係が継続する確率を測定する機械も登場する。

確率が高ければ安心なの?本物の関係なの?

そもそも"本物"とは何なのだろうか。

だれかに教えてもらえるものなのだろうか。

本物「ではないもの」なら、なんとなくわかるような気もする。

本物「ではないもの」と比べることによってのみ

なにかが見えてくる。

それを一応、自分のなかで「ほんものだ」ととらえることしか

できない、というか、それがすべてではないだろうか。


この作品そのものはハッピーエンドだったものの

自分の実際の人間関係についてまで考えたくなってしまうような

そんな映画体験だった。

2020/04/30

ショート・ターム


(Short Term 12/ 2013年アメリカ)



Amazon プライムにて鑑賞。映画をみてひさしぶりに感想を残したくなったので。

問題を抱えた10代の子供たちを預かるグループホーム「ショート・ターム12」で
ケアマネージャーを務めるグレイス。
彼女は同僚のメイソンと長く恋人関係にあり、
ある日彼との子供を妊娠していることがわかる。
彼に素直に気持ちを打ち明けられず、すぐに中絶の予約をいれてしまう。
グループホームでは、自傷の経験のあるジェイデンを受け入れる。
グレイスは、ジェイデンが父親から虐待をうけていることを見抜く。
恋人との子供の妊娠やジェイデンの存在をとおし、
グレイスは自分の壮絶な過去と向き合うことになる。

*****

グループホームには、大学を休学して職場体験にきたネイトという青年がいる。
ネイトは自己紹介をする際に、「恵まれない子供たち」という言葉を使い
みんなを困惑させてしまうが、
ふいに私自身もどちらかといえばネイト側の人間ではないか、と思わされた。

物語では、「心に深い傷を負った」グレイスが、
子供たちを理解し、彼らとぶつかり、それでも信頼を得ていく様子が描かれる。
このことは、彼女自身が子供たちと同じ境遇だからこそ、
可能なのではないかという気がしてくる。
彼女がまだ若いことからも、単に経験から裏打ちされている
わけではないだろうことがうかがえる。


私は「あなたはどうせ恵まれているから」と言われることが
これまで少なからず、あった。
恵まれているために、そうでないひとの気持ちなんてわからない、と。
以前はそれに抗いたい気持ちがあったものの、
そうしたところで思い浮かぶ反論はどれもすぐに消えてしまう。
そして実際に、「気持ちがわからない」のはほんとうなのかもしれない、と
思うことが、大人になって仕事をするようになってから、何度もあった。
そのような「わからない」という気持ちとうまく付き合うことこそ
重要なのかもしれない。
親や家庭環境を選んで生まれてくることはできない、
それはみんな同じなのだから。




2020/03/31

ヨー言ワンワ

1年以上前に書き残していたもの。
とくに結論や自分の生活との関連づけはしていない。
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図書館でなにげなく手にとった『ものの言い方西東』(小林隆,澤村美幸著)に、
「大阪ことば」にみられる「当事者離れ」という手法が載っていて、
おもしろくて何度も読み返してしまった。

そのなかに例として挙がっていたのが、「ヨー言ワンワ」という、
「あきれて、私は何も言えないよ」というような意味(p.110)の言い方である。
あきれた状況をまのあたりにしても、「おかしいだろ」「何言ってるんだ」と
感情的に反応するのではなく、
「その場の状況のばかばかしさを、遠巻きに眺めている雰囲気が漂う」(p.110)。
「事件の当事者としてではなく、状況の外に立つ第三者として
事態のおかしさを味わおうとする姿勢」として、
「当事者離れ」の手法は説明されている。

さらに、このような手法は、自分自身のまぬけな行為に対してや、
相手に頼み事をするときにもとられるという。

2019/03/19

しゃもじ

祖母の言葉遣いはおもしろい。世代の違いだろうか。方言も関係あるのだろうか。

たとえば、他動詞を使うべきところに自動詞を使う。「鍵かけた?」ではなく、「鍵かかった?」。「コンロの火は消した?」ではなく、「コンロの火は消えた?」。鍵は「かけた」から「かかった」のであり、コンロの火は「消した」から消えたのだが。相手にしたかしていないかの行動の確認をしているはずが、言葉になっているのはその結果の部分である。いちばん気になっているのが結果の部分だからだろうなと思ってはいても、その言い方がおかしくて、私はいつまでたっても慣れない。

物の名前もそうだ。

祖母は、本来なら「おたま」と呼ぶべきもののことを、なぜか「しゃもじ」という名前で呼んでいる。「しゃもじ取って」。そう言われたので、ごはんをよそうときに使う、あの平べったい、そして先がゆるやかにカーブした、あれを渡そうとしたら、違っていた。祖母にとっての「しゃもじ」とは、「おたま」のことだったのである。「それ、『おたま』でしょ」と指摘すると、祖母は「おたま、って、いい名前やね」という感想までよこした。けれども明日も、祖母にとっての「しゃもじ」は「おたま」のままだろうと思う。

祖母は、当時の女性としてはめずらしく、大学の食物科を出ている。だから、「しゃもじ」と「おたま」を間違って覚えていることなんて、ないと思うのだけれど。不思議である。

2019/03/09

身ぶりとしぐさの人類学

わたしにはもともと、文化人類学への興味があった。今回、ひさしぶりに関連する本を手にとってみたのだが、それが『身ぶりとしぐさの人類学 身体がしめす社会の記憶』(野村雅一)である。

ひさしぶりに記録にのこしたいと思える一冊だったので、じぶんのメモをつらね、そして、思うところをかんたんにではあるが書きくわえていきたい。

「儀礼的無関心」(p.95-
知らない人間どうしが居合わせる状況での、アメリカ社会の作法。社会学者ゴフマンが名づける。
いつも儀礼的無関心をよそおうのではなく、とくに欧米の社会では、知らない人どうしでも、ほほえみやことばを交わすのが、エチケットとして認められる場合もある。
「儀礼的無関心のルールは、あいさつや積極的関与のルールと表裏の、緊張をはらんだ関係にあることがわかるだろう」p.98

英国滞在中、居合わせたひとたちの顔じゅうに広がるような笑みに、足がすくむような思いをしたことが何度もある。笑顔をむけられているのに、どこか近寄りがたいような、信じてはいけないような。それは、そのひとたちが数秒後には、さきほどの笑みなど嘘であったかのように、なんでもない表情になると知ったからではない。見知らぬひとも笑顔で「とりあえず」迎える、でも一歩も近づくことはさせない(と感じられる)。そのようなふるまいが、儀礼として、彼らのなかにしみついていることを、目撃してしまったからである。その、とりあえず迎えるが近づくことはさせない、というのが、やはりそれはそれとして、ひとつの「緊張」であることを、私はようやくこの一節から学んだのだった。

p.102)近代日本語の表現構造の、日本人の表情の乏しさへの影響
ことばに関心があるために、とくに印象に残ったこの部分によって、つい先日、インターネット上でみかけた「日本人は“いらっしゃいませ”といわれても、返事もしない」という意見に対して抱いた違和感が、ぬぐわれたのだった。ひとたび店に足を踏みいれればかならずといっていいほどかけられる「いらっしゃいませ」に、いったいどう返事すればいいのだろう。常連で、店員とも顔見知りだという場合なら、「こんにちは」などとあいさつをするのも自然だとは思うが。このほかにも、日本語には応答を必要としない表現がみられる。このような表現は、相手との交互のやりとりである「会話的」コミュニケーションと対極をなすものである(pp.102-103)。以下、これといった結論はないが、日本人のコミュニケーションの表現に関連して考えたことをつらねておく。
■NHKの「チコちゃんに叱られる!」という番組に、「なぜ“さようなら”と言うのか」という疑問がとりあげられているのをみかけた(201939日放送)。北海道弁では「したっけ」ともいう「さようなら」は、「それなら」という接続詞がもとであり、「これまではこうだったんだから、この後もね」という意味がこめられているという。ちなみに、現代日本語の共通語においては「さようなら」自体を接続詞でつかうことはないものの、わたしの北海道出身の友人によれば、「したっけ」は別れの言葉としてのみならず、接続詞としてつかわれる場合もあるという。
■同じ番組内に、小学校の教室で、一斉に「さようなら」をいう場面がながれていた。「さようなら」は相手もおそらく「さようなら」と応えるだろうから、「いらっしゃいませ」や「ごちそうさま」ほど「非会話的」コミュニケーションの形態とはいえないだろう。ここでいいたいのは、そのような、会話的かどうか、ということではない——もしかすると日本人のあいだでは、あいさつの表現が自動化されすぎているのかもしれない、ということだ。さきほどの「さようなら」にしろ、朝礼の「おはようございます」にしろ、給食をたべる前の「いただきます」にしろ、低学年のうちはとくに、みんなで一斉にすることがあたりまえのようになっている。また、アルバイトにしろ、正規雇用にしろ、店員となったからには「いらっしゃいませ」をいう練習をすることもある。
■自動化は、危うく、そして冷たいものだ。と思う。自動化されてしまった流れが、ふとした瞬間にぷっつりと切れると、途端にうまくいかなくなる。自動化されたうつくしい流れとのコントラストが、頭をもたげる。わたしはそういった場に居合わせると、居たたまれない気持ちになる。そういう瞬間をまのあたりにするのが怖い。あまりにも礼儀正しくしようと演じるひとが、苦手である。それくらいならむしろ、もっと「ふつうに」接してほしいと願うことすらあるが、それをなかなか許してくれない社会があることも、知っている。そしてもちろん、そのひと自身が悪いわけではない。自動化をすすめる社会や風潮のせいなのである。広く大きな社会の襞を、わたしたちにはかりしれぬ影響を及ぼしながら、ことばはたゆたってゆく。

「顔はまさに自分のものであって自分のものではないのである」(p.105)

p.117-)ふたりの人物の関係を、ひとはさまざまに解釈し、それが合っている場合もあれば、ずいぶんと的外れな場合もある。デーン・アーチャーがおこなった、ふたりの人物がうつるスナップ写真を被験者にみせ、彼らの関係を判読してもらう、という実験は、興味ぶかい。
「みられる側からいうと、他人からこのように勝手に読みとられることを知っているからこそ、それぞれの役を無意識に強調して演じてしまうのだろう」p.121

「われわれの感情は、ほんとうはじぶんの自由にならず、社会的場面に応じてつかいわけることが厳しく求められている」(p.123
ほんとうは笑うべきでない場面は、無数に存在する。それは暗黙のうちに、きびしく守られなければならない。しかし、それにくらべて、悲しみや怒りといったほかの感情は、そう厳格なルールがあるわけではないように感じられる。たとえば、まわりのひとがなんでもないと思う場面で涙を流したひとがいても、「感情豊かなのだな」ということで片づけられる。ルールを「守らなかった」からといって、きびしく咎められることは、場違いな笑いとはちがい、ないように思われる。笑いとはそれほどに、ほかの感情とは一線を画すものということなのだろうか。

p.150-)指さし、という行為は、それ自体がタブーとされている文化もあるという。西アフリカのフルベ族では、指さした瞬間に殴り合いの喧嘩がおこってもおかしくない。ギリシアの遊牧民のあいだでは、ひとはもちろんのこと、他人のヒツジを指さすのもタブーとみなされ、もしそのヒツジが病気にでもなれば、指さした人間の過失とされるおそれがある。欧米でも、相手への直接的な「警告」や「威嚇」、「非難」をあらわすために、指を相手の胸もとに突きつける。
p.153)このような高圧的な指さしの使い方がある一方、日本人のする指さしについて、筆者はつぎのように指摘する。
日常的な場面で「あなたはね」「かれはね」といいつつも、なにげなく指さしをおこなうことが多い。
日本人の会話の傾向(話の指示対象を明確にしない)との関連。
いま、だれのことを話題にしているのか、そのひとりひとりについてはっきりと示す必要性が高まってきた——それだけ人々の察しが悪くなってきたのではないか。(p.153)

2018/12/30

2018年12月までに観た映画と年間ベスト

今年は例年にくらべ、目に見えて劇場に行かない年になってしまった。
長い夏休みのあいだ、一度も劇場へ行かなかった。
環境ががらりと変わったのもあり、じつを言うとそれほど興味のある映画がなかったのもあり...劇場映画、不作な年でした(もちろん個人的に)
ということで(?)少ない公開映画鑑賞リストのなかでは、マイベストは『君の名前で僕を呼んで』


『パンズ・ラビリンス』
ついに観た.....
むかしから名前は知っていたけれど、うっかりみてしまうとトラウマになる?という話をどこかで聞いたこともあって、なかなか手にとる機会もなく。
メルセデス姉弟のやさしさ、強さだけが唯一の救いという気がした。

『オリエント急行殺人事件』
WOWOWにて鑑賞。なぜ観ようと思ったのかは忘れてしまったが、
ケネス・ブラナーのスタイリッシュなポアロの身のこなしに、最初からぐっと引きこまれた。
アガサ・クリスティの作品は、ほとんど馴染みがない。
旧作も未見だったので完全にまっさらな状態でサスペンスを楽しめた。
有名な作品なのでネタバレもなにもないとは思うが、水谷豊の『相棒』を見慣れている身としては、最後の選択に新鮮な驚きがあった。

『キング・アーサー』(2017)
チャーリー・ハナムに一時期はまっていたこともあり、彼の主演作ということで録画して鑑賞したが、「動いている俳優をみるのが楽しい作品、ということで...」と妙に冷静にみてしまった。
たまに流れる独特の挿入曲が印象的。
アメリカ映画なのかイギリス映画なのか、どちらの雰囲気もありつつもお互いにうまく溶け合っていないような、座りの悪さをおぼえた。話されているのはいわゆるイギリス寄りの言語だけれども、展開がどことなくアメリカ的。

『ボヘミアン・ラプソディ』
じつは音楽ものはそれほど得意ではない(最たるものがミュージカル)ためか、
話題なのは知っていたけれど特に観るつもりはなかった一作。
ところが私が映画好きなのをよく知る友人たちからの「観た?」
というメッセージの嵐に、たまたま別の友人を誘って劇場へ。
そのためにハードルを上げすぎたのか、観終えたときの感動はそれほど...
だったのに、さすがはQueenということなのか何なのか...
帰ってからいろいろ調べたり彼らの曲を手当たり次第に聴いているうちに、いつのまにか忘れがたい作品に。

最近はジムで有酸素運動しながら聴くのがマイブームになっている。
とくに、"Radio Gaga"は曲のスピードにあわせて歩くと気分がすうっとする。
"Somebody to Love"の歌詞には、思わず目の奥がぶわっと熱くなる。

...とQueenの曲の話ばかりになってしまったが、
フレディ・マーキュリーを、信じられないくらい圧倒的に演じたRami Malekのことはずっと忘れられないと思う。
全然知らない俳優だったけれど、Twilightシリーズやナイト・ミュージアムにも出ていたらしい。どちらも未見だが。

メンバーのなかでは一番地味な扱いだったし、作中ではいつ仲間入りしたのか完全に見逃してしまった(?)けれども、John Deaconを演じるJoe Mazzelloが気に入った。地味でおとなしいけれどもちょっと光るような、そんなキャラクターが好きだな。


思いもかけず『ボヘミアン・ラプソディ』で締めくくった1年でした。
目下のところ、年末に知って俄然楽しみになった『レベッカ』のリメイクの話を楽しみに生きようと思う。

2018/11/08

この世界の片隅に

1934年、広島・江波。浦野家の三人兄妹の長女として生まれ育ったすずは、のんびりした性格で、絵を描くことや空想が大好き。家族に囲まれ穏やかな日々を送っていたすずだが、18歳になったある日、呉に住む周作という青年に望まれ、嫁入りすることになる。周作は呉にある軍法会議で働き、父の円太郎も町の多くの人たちと同じように海軍で働いて生活していた。慣れない呉での生活、性格のためかなにかと辛くあたる義姉の径子の存在もあるものの、すずは持ち前の明るい性格で新しい生活になじんでいく。ところが、戦争の影は徐々に色濃くなり、やがて1945年の夏が迫ってくる。

先日、一緒に旅行した広島在住の友人にすすめられ、レンタルしてきた。
アニメ映画の感想を書くのは初めて。

牧歌的で淡いトーンの描写に、冒頭から全身の力が抜けるような気持ちになった。幼少期からのすずとまわりの生活が、淡々としているようで丁寧に時間を追って描かれる。周作との最初の出会いという、夢とも現実ともつかないエピソードも、同じような調子で溶けこむように示されていた(最初にみたときは周作との出会いに気がつかず、このシーンはもう一度戻って見直したのだが)。

戦時下の広島を描くもの、ということで、むかし家にあった『はだしのゲン』のことをひさしぶりに思い出した。原爆被害の描写ははるかに多くそしてむごい『はだしのゲン』。それに比べ、前述のように牧歌的で淡いトーンが全体を包みこんではいるものの、本作はそのなかで不意であったり部分的であったりして、衝撃的な場面が登場する。

現代から振り返ると、たしかに「戦争」はあった。そう私たちは理解している。けれども、当時の人々にとってそれは、「戦争」と名前を呼んではいても、よくわからない「何か」だ―日常を少しずつ少しずつ変えていき、気づけばなにが「日常」であったのか、始まりのわからない、それでいて突然終わりがやってきてつき放される、そういったものだったのかもしれない。