2019/03/19

しゃもじ

祖母の言葉遣いはおもしろい。世代の違いだろうか。方言も関係あるのだろうか。

たとえば、他動詞を使うべきところに自動詞を使う。「鍵かけた?」ではなく、「鍵かかった?」。「コンロの火は消した?」ではなく、「コンロの火は消えた?」。鍵は「かけた」から「かかった」のであり、コンロの火は「消した」から消えたのだが。相手にしたかしていないかの行動の確認をしているはずが、言葉になっているのはその結果の部分である。いちばん気になっているのが結果の部分だからだろうなと思ってはいても、その言い方がおかしくて、私はいつまでたっても慣れない。

物の名前もそうだ。

祖母は、本来なら「おたま」と呼ぶべきもののことを、なぜか「しゃもじ」という名前で呼んでいる。「しゃもじ取って」。そう言われたので、ごはんをよそうときに使う、あの平べったい、そして先がゆるやかにカーブした、あれを渡そうとしたら、違っていた。祖母にとっての「しゃもじ」とは、「おたま」のことだったのである。「それ、『おたま』でしょ」と指摘すると、祖母は「おたま、って、いい名前やね」という感想までよこした。けれども明日も、祖母にとっての「しゃもじ」は「おたま」のままだろうと思う。

祖母は、当時の女性としてはめずらしく、大学の食物科を出ている。だから、「しゃもじ」と「おたま」を間違って覚えていることなんて、ないと思うのだけれど。不思議である。

2019/03/09

身ぶりとしぐさの人類学

わたしにはもともと、文化人類学への興味があった。今回、ひさしぶりに関連する本を手にとってみたのだが、それが『身ぶりとしぐさの人類学 身体がしめす社会の記憶』(野村雅一)である。

ひさしぶりに記録にのこしたいと思える一冊だったので、じぶんのメモをつらね、そして、思うところをかんたんにではあるが書きくわえていきたい。

「儀礼的無関心」(p.95-
知らない人間どうしが居合わせる状況での、アメリカ社会の作法。社会学者ゴフマンが名づける。
いつも儀礼的無関心をよそおうのではなく、とくに欧米の社会では、知らない人どうしでも、ほほえみやことばを交わすのが、エチケットとして認められる場合もある。
「儀礼的無関心のルールは、あいさつや積極的関与のルールと表裏の、緊張をはらんだ関係にあることがわかるだろう」p.98

英国滞在中、居合わせたひとたちの顔じゅうに広がるような笑みに、足がすくむような思いをしたことが何度もある。笑顔をむけられているのに、どこか近寄りがたいような、信じてはいけないような。それは、そのひとたちが数秒後には、さきほどの笑みなど嘘であったかのように、なんでもない表情になると知ったからではない。見知らぬひとも笑顔で「とりあえず」迎える、でも一歩も近づくことはさせない(と感じられる)。そのようなふるまいが、儀礼として、彼らのなかにしみついていることを、目撃してしまったからである。その、とりあえず迎えるが近づくことはさせない、というのが、やはりそれはそれとして、ひとつの「緊張」であることを、私はようやくこの一節から学んだのだった。

p.102)近代日本語の表現構造の、日本人の表情の乏しさへの影響
ことばに関心があるために、とくに印象に残ったこの部分によって、つい先日、インターネット上でみかけた「日本人は“いらっしゃいませ”といわれても、返事もしない」という意見に対して抱いた違和感が、ぬぐわれたのだった。ひとたび店に足を踏みいれればかならずといっていいほどかけられる「いらっしゃいませ」に、いったいどう返事すればいいのだろう。常連で、店員とも顔見知りだという場合なら、「こんにちは」などとあいさつをするのも自然だとは思うが。このほかにも、日本語には応答を必要としない表現がみられる。このような表現は、相手との交互のやりとりである「会話的」コミュニケーションと対極をなすものである(pp.102-103)。以下、これといった結論はないが、日本人のコミュニケーションの表現に関連して考えたことをつらねておく。
■NHKの「チコちゃんに叱られる!」という番組に、「なぜ“さようなら”と言うのか」という疑問がとりあげられているのをみかけた(201939日放送)。北海道弁では「したっけ」ともいう「さようなら」は、「それなら」という接続詞がもとであり、「これまではこうだったんだから、この後もね」という意味がこめられているという。ちなみに、現代日本語の共通語においては「さようなら」自体を接続詞でつかうことはないものの、わたしの北海道出身の友人によれば、「したっけ」は別れの言葉としてのみならず、接続詞としてつかわれる場合もあるという。
■同じ番組内に、小学校の教室で、一斉に「さようなら」をいう場面がながれていた。「さようなら」は相手もおそらく「さようなら」と応えるだろうから、「いらっしゃいませ」や「ごちそうさま」ほど「非会話的」コミュニケーションの形態とはいえないだろう。ここでいいたいのは、そのような、会話的かどうか、ということではない——もしかすると日本人のあいだでは、あいさつの表現が自動化されすぎているのかもしれない、ということだ。さきほどの「さようなら」にしろ、朝礼の「おはようございます」にしろ、給食をたべる前の「いただきます」にしろ、低学年のうちはとくに、みんなで一斉にすることがあたりまえのようになっている。また、アルバイトにしろ、正規雇用にしろ、店員となったからには「いらっしゃいませ」をいう練習をすることもある。
■自動化は、危うく、そして冷たいものだ。と思う。自動化されてしまった流れが、ふとした瞬間にぷっつりと切れると、途端にうまくいかなくなる。自動化されたうつくしい流れとのコントラストが、頭をもたげる。わたしはそういった場に居合わせると、居たたまれない気持ちになる。そういう瞬間をまのあたりにするのが怖い。あまりにも礼儀正しくしようと演じるひとが、苦手である。それくらいならむしろ、もっと「ふつうに」接してほしいと願うことすらあるが、それをなかなか許してくれない社会があることも、知っている。そしてもちろん、そのひと自身が悪いわけではない。自動化をすすめる社会や風潮のせいなのである。広く大きな社会の襞を、わたしたちにはかりしれぬ影響を及ぼしながら、ことばはたゆたってゆく。

「顔はまさに自分のものであって自分のものではないのである」(p.105)

p.117-)ふたりの人物の関係を、ひとはさまざまに解釈し、それが合っている場合もあれば、ずいぶんと的外れな場合もある。デーン・アーチャーがおこなった、ふたりの人物がうつるスナップ写真を被験者にみせ、彼らの関係を判読してもらう、という実験は、興味ぶかい。
「みられる側からいうと、他人からこのように勝手に読みとられることを知っているからこそ、それぞれの役を無意識に強調して演じてしまうのだろう」p.121

「われわれの感情は、ほんとうはじぶんの自由にならず、社会的場面に応じてつかいわけることが厳しく求められている」(p.123
ほんとうは笑うべきでない場面は、無数に存在する。それは暗黙のうちに、きびしく守られなければならない。しかし、それにくらべて、悲しみや怒りといったほかの感情は、そう厳格なルールがあるわけではないように感じられる。たとえば、まわりのひとがなんでもないと思う場面で涙を流したひとがいても、「感情豊かなのだな」ということで片づけられる。ルールを「守らなかった」からといって、きびしく咎められることは、場違いな笑いとはちがい、ないように思われる。笑いとはそれほどに、ほかの感情とは一線を画すものということなのだろうか。

p.150-)指さし、という行為は、それ自体がタブーとされている文化もあるという。西アフリカのフルベ族では、指さした瞬間に殴り合いの喧嘩がおこってもおかしくない。ギリシアの遊牧民のあいだでは、ひとはもちろんのこと、他人のヒツジを指さすのもタブーとみなされ、もしそのヒツジが病気にでもなれば、指さした人間の過失とされるおそれがある。欧米でも、相手への直接的な「警告」や「威嚇」、「非難」をあらわすために、指を相手の胸もとに突きつける。
p.153)このような高圧的な指さしの使い方がある一方、日本人のする指さしについて、筆者はつぎのように指摘する。
日常的な場面で「あなたはね」「かれはね」といいつつも、なにげなく指さしをおこなうことが多い。
日本人の会話の傾向(話の指示対象を明確にしない)との関連。
いま、だれのことを話題にしているのか、そのひとりひとりについてはっきりと示す必要性が高まってきた——それだけ人々の察しが悪くなってきたのではないか。(p.153)